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2007年5月15日 (火)

赤ちゃんポスト

3歳児が捨てられたとか("預けた"なんてきれい事の言い方はしないよ)。これ犯罪になる覚悟でメッセージしたともとれるな、僕は。「ほんとにいいの、この制度」って意味で。

ハッキリ言って、赤ちゃんポストは反対である。

どうしても育てられない理由って何なんだろう。生活保護でフォローしても何ともならない状態なのだろうか。僕は、子育てを何もやらないまま「べき論」のみで、これを言ってないと確信してる。助かる命は助けたい、だから設置もわからないことはない。子育てから逃げ出したくなる気持ちだって痛いほどわかる。大変だからこそ僕だって長距離散歩と称して「プチ家出」してる。音楽だってそういう「逃避」の部分あるよ。好奇心だけでやってるなんて言ったらウソだ。でも決して完全には逃げ出してはいない。絶対に「完全に」逃げ出してはいけないのだ。子どもは「生命」なのだ。どんな理由があろうと、完全に逃げ出してはいけない。

ガキなんかとべったりいたら心が壊れるのも事実。
もうこっちは大人であって、子どもじゃない。
ただもっとその逃げ出し方に頭を使えないものか。

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コメント

Tonちゃんの言うことわかる、よくわかるんだけど、こいつには絶対子育てさせちゃいけない、理屈じゃなく子供から隔離しないとまずい、どんなに教育しても無駄って大人がいる、しかもそういうやつにも子供が生まれることがあるという事実にも、悲しいけどものすごいリアリティーを感じちゃうんだ。子育て携わる上で、絶対に壊れていちゃいけない部分が修復不能でこわれているやつって、本当にいるんだよ。

投稿: ウミユスリカ | 2007年5月15日 (火) 15時43分

それでも放っておいたら死んでしまう命はどうやって救うか。それなんだね。赤ちゃんポストは決してベストな方法ではない。けれども、代案がない限りベストでなくても取らざるを得ないというのが本音でしょうね。

年中発情期という、動物としては珍しい繁殖の上での特徴がいろんな影響を与えるわけですね。家族計画くらいはお勉強していただきたいと思いますよ、そういったおバカな方達は。

投稿: をーつき | 2007年5月15日 (火) 20時35分

「必要悪」と言ったところだろうか・・・・
親に捨てられたという思いを持ったまま幸せになれるのか、いや「死」は「可能性」をすべて終わらせてしまうだけでもある。
現実問題として「保護責任放棄」や「虐待」で失われていく命があるのもまた事実。
「正解」もなければ「答えもない」というのが「正解の答え」なのかもしれないね。

投稿: をんばせ | 2007年5月15日 (火) 22時16分

先日のTonちゃんとのやり取りで、大人の男女でいやおうなしにコンプレックスを刺激してしまう関係というのが出てきたけど、子供がいることでいやおうなくコンプレックスを刺激される大人もいるというのも、また事実なんだよね。

投稿: ウミユスリカ | 2007年5月15日 (火) 22時54分

 赤ちゃんポスト(コウノトリのゆりかごって偽善的ネーミングもどうかと思う)はたくさんあります。親が直接捨てるのか、児童相談所の手で捨てられるのかの差だけであって。去年首都圏の児童養護施設を嫌って言うほど回って、「親がいるのにここにいなきゃいけない」子ども達の声にならない声に押しつぶされそうでした。
 ウミユスリカさんのおっしゃる通り、子どもから離さなければいけない親もいます。
子どもから「保護してくれ」って駆け込んでくる場合もあります。自分でそれを言えない子ども達をどう助けていけばいいのか、ポストだけが取り上げられていますが、児童養護施設や自立支援施設、母子生活支援施設のことを知っている大人がどのくらいいるんでしょうね?私は福祉で飯を食っていながら、高齢者ばっかりに目を向けていたことを思い知らされて恥じ入るばかりでした。虐待ニュースで児童相談所ばかりがやり玉に挙がりますが、どれだけ人員配置がされていて、1人がどれだけのケースを抱えているか報道もされませんよね。児童福祉司が防刃チョッキ着込んで家庭訪問するなんて想像できる人が何人いるのでしょうか?知らなかった、ではすまされない現実があるとつくづく思い知らされています。 
 

投稿: 尻破れの妻 | 2007年5月16日 (水) 08時17分

男ばっかりで意見書いていても、少し弱いなと思ってた所に、尻破れの妻さんの福祉の現場からのコメントが付いて、ほんと素敵なブログだな、ここ。

玄侑宗久『釈迦に説法』(新潮新書066)のなかで、こんな逸話が紹介されてた。親鸞(浄土真宗開祖)が弟子の唯円(後に「これが正しい師匠の言葉だ!」って意味で『嘆異抄』って書を作る人)に「お前、1000人殺せといわれたら殺せるかい?」って尋ねた。当然「出来ませんよ、そんな」と答える唯円。すかさず親鸞が一言。「それはね、お前に殺すことが出来るようになるだけの縁がなかっただけさ」って説いたそう。

確かにそうなんだよね。僕自身の心の中にも、善悪両方の種子がある。カミさんも昨日、次男があまりに聞かないから「捨てられたらどれほど楽だろう」って気持ちが心をよぎったって、ちゃんと言ってた。でも僕もカミさんも、それをしないのは「親なり、周りの人々なりにちゃんと愛されてきた」、そういう縁のなかで生かされてきたにすぎないんだよね。お金という意味でなく「愛」という意味では、間違いなく育ちはいいです。修復不能なほど壊れてしまってる人は、愛の部分で欠落してしまっているんだろうと思う。

修復不能ってことは、死んで消えなくてはならないのかなぁ。それも悲しいな。俺も生きていていいのか、と問いたくなる。ただ昨今の事件見てると、死刑は無くせないなと思うね。ほんと陰陽。たとえ善人といわれる人だけを集めても、何らかの善悪に別れると思う。業だな、ほんと。死んで僕の命がニュートラルな生命エネルギーの世界に戻るまでは、せいぜい七転八倒してやろうとは思ってます。いや、そう思うしかないや。

投稿: さかた | 2007年5月16日 (水) 23時58分

あぁ、親鸞のその話、ずいぶん昔に聞いたことあるなぁ。でもそれ本当だと思うよ。

一般人を徴兵して戦場に連れて行くと、過半数の人間は人が殺せなくて、大半の戦果はある一定確率でいる、(別に残虐なんじゃないけど)そういう状況になったら人を殺すことに心理的抵抗の低い人によるらしいんだけどね、ところが、ある特殊な訓練を施せば、前者の過半数の人でも、反射的に人を殺せるようになるんだって。第二次大戦のときの米軍が、本当に銃を撃つことができた兵士の比率の低さに頭を抱えて、そういう訓練のメソッドを徹底的に開発したらしいんだけどね。

歴史的にみると、平安時代とか鎌倉時代の武士って、館に拘禁施設を持っていて、領知に来た流れ者なんかを捕縛して、矢の的にして殺すということを絶えずやっていたらしいよね。ほら、『男衾三郎絵詞』の「馬庭の末に生首絶やすな切りかけよ」ってフレーズ。僕にはあれは、戦士としての武士が戦場に出て敵を殺害することを躊躇しないための訓練だったんじゃないかと思ってる。

だから、愛というのか慈悲というのか善というのか、あるひとつの言葉に押し込めていいのかどうかはわからないんだけど、人間って、そういうものがあるからいろんな行動にブレーキがかかるようになっているし、逆に言うと、そのブレーキさえピンポイントで壊せば、とんでもないことができてしまう素質も持っているんだよね。

心をよぎるだけだったら、どんなに愛する身内ですら、存在を自分の圏内から消してしまいたい(それがどういう手段であれ・・・ね)ってことが出てきてちっともおかしくないんだよね。ナザレ人イエスが、姦淫を犯した女性を石打で殺そうとしていた人たちに、「みだらな思いをしたことがない人だけが打ちなさい」と言ったのと同じだよね。だれだって、よぎるだけだったら、けっこうとんでもない思いが心の中をよぎっている。犯罪者に対してどういう罰を下すにせよ、たまたま自分にはブレーキか縁か、そういったものがサポートしてくれて、そのおかげでそういうことをせずに済んだんだって、そういう意識は欠かしちゃいけないと思う。あいつらは人間とはいえない存在だって単純に蔑むことだけは避けたい。自分と連続してるけど、だけど自分は縁あってそういう人間にならずに済んでいるだけなんだって、そう思いたい。

だから、死刑の問題も具体的な政策としてどうこう言う前に、死刑廃止論でも、死刑肯定論でも、そのどちらのドグマにも飲み込まれない、それこそ七転八倒した境地に自分をとどめておきたい。

投稿: ウミユスリカ | 2007年5月17日 (木) 06時59分

 今、七転八倒するエネルギーすらなくて全てめんどくさい、と投げてしまう人が増えているんでしょうか?だから無計画に子どもを作り、育てられなくて殺したり捨てたり。最後のブレーキをかけなかったその後、を想像する力がないのではなく、想像することがめんどくさいから考えないのかも。
 児童養護施設にはネグレクト(育児放棄)をされた子どもが入所してくる場合もありますが、食卓でご飯を食べる、布団で寝る、そんな最低限の生活習慣を経験したことのない子どもが多いそうです。「やってはいけない」と言われたことがない子に「こういうことはやってはいけませんよ」と理解してもらう為に必要なエネルギーは子育て経験者の皆様の方が良くおわかりと思います。それを親の代わりに教える職員達は、休みも取らず、本問いに不眠不休で働いています。だから体や心を病んで止める人も大勢います。介護の仕事もキツイと思っていましたが児童福祉の比じゃなかったです。だって親は24時間356日、休まない訳ですから。今年もそんな世界に若者が飛び込みました。半年後、何人残っていてくれるのかな。自分の家庭を持ったら仕事は続けられない、そういって諦めた若者もいます。
 いつか、ここの皆様にお伝えしたいと思っていました。皆さんにもできる支援があります。
 児童養護施設って何?と思われた方、ネットで良いので色々調べて下さい。何かしなくても、こんな所がある、ここを出た子ども達が大人となってもしかしたら自分の周りにいるかも、あるいはお子さんの学校に同級生としているかも、そう心の片隅で結構ですので知っていて下さい。お願いします。

投稿: 尻破れの妻 | 2007年5月17日 (木) 12時43分

愛されるかどうかなんだよね。
別に子どもに限らず、大人同士だってそうだと思う
実の親か、育ての親かなんて大きな問題ではない。
本気でぶつかって愛したかどうかだけが問題なんだと思う。

「欲しいのに授からない」、これはほんとうにつらい。
だからこそ育てられない人の元に赤ちゃんがいるよりは
まず間違いなくこういう人に育てられた方が幸せなのでは
ないかと思う。そういう人の元へ、大切な命が行くための
施設としてはあってもいい気はしてきた。

ただ、子ども育てる中で、自分のいやらしさや矛盾に
気付かされ、育っていく自分っての、知って欲しい
気持ちは拭えないなぁ。

投稿: さかた | 2007年5月19日 (土) 01時11分

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