« 映画「眉山」、本音の感想 | トップページ | 『のだめカンタービレ』18巻 »

2007年6月17日 (日)

性と音楽と生命力-『眉山』を読んで-

さだまさし・前田祥丈『われても末に』(八曜社、1994年)という対談本がある。この中のさださんは世間的イメージとちょっと違う。素の佐田雅志さんがいる。ご自分の姿もコマーシャル的にいろいろな面からすごくクールに見ておられる。さださんに限らず中島みゆきさんや吉田拓郎さんなどこの辺りの方々は、本読んだりインタビュー聞いてると皆、クールで知的だ。「商品として自分をどう生かすか」をとても冷静に見てる。彼らはファンであるこちらが熱狂し本人と同一視している部分も、私生活とはある部分で切り離し、「芸」としてやっている。でなきゃクオリティを維持できないし、あの芸能界で自分や家族を守れない。これほど生き残ってもこれないだろうと思う。

この本の中でさださんがこんなこといってた。
「10周年記念コンサートのツアー中、兄貴分だったギタリストの福田幾太郎さんを亡くした。ショックでアル中になりかけるぐらい酒飲んだし、ずいぶん泣いて過ごした。でもある時期が経つと、食欲が出て、女を抱きたくなった。勃ったのよ。いつかこの『勃つ』を歌ってみたい。でもいまは生臭くてだめ。もっと枯れなきゃダメだな」みたいなことを。面白くてロマンチックな女の子向けの歌を書く歌手だなんて思ってる人には驚く言葉だと思う。「性の部分をどう下卑ずに本質もつかみながら表現するか」のテーマと向き合ってるんだな、と思った。

そのテーマへの回答の一つが、
小説『眉山』の中にあったと、僕は思ってる。

抑制に抑制を重ねて爆発する阿波踊りの本質を描いた一節(文庫では23頁2行目~10行目)。ここ読んだとき、「これ、セックスじゃん」と思ったもん。音楽的快楽がためてためて爆発する過程は、性的快楽のそれにとてもよく似ていると思う。「よしこの囃子」の女踊りについて書いた一節、「両の足で整然とそれを繰り返し、跳ねながらも決して乱れず暴れない。ここでも不自由との闘いになる。しかしその不自由さによって沸点がさらに高く、熱くなるのだから人の心の働きは面白い。じっと耐えながら踊っていると頭の芯まで真っ白になって、そのくせ身体の奥から感動に似た波が湧きおこってくるのだ」。これもそう。リズムの快楽を語る上でとてもリアルで美しい。だが僕にはすごく性的にも読める。そしてこれ、まさに龍子の人生そのものに。単につらいことを耐えたのではない。生理として身体のどこかでそれが快楽に変わらない限り、決して出来ない。男と女では性的快楽のあり方は違う。それが全てではないが、そういう部分も女性の生命力の強さのバックボーンにはなっているのではないか、と。

僕のような下卑た人間が書くと、とてもイヤラシく読めるかも知れないけど、性とは生命力の一つであると思っている。単に汚いものとして目を背けることは、人のもつ「動物としての生命力」の半分以上を捨てることだ。
『眉山』を読んで、「とうとうさださん、この部分に斬り込んできたんだ」と思った。誰かを傷つけるような下卑た筆致ではない。しっかりと生命力の礼賛になっている。僕が単に愛されたという意味で育ちがいいからそうとれるだけかも知れないけどね。

|

« 映画「眉山」、本音の感想 | トップページ | 『のだめカンタービレ』18巻 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 性と音楽と生命力-『眉山』を読んで-:

« 映画「眉山」、本音の感想 | トップページ | 『のだめカンタービレ』18巻 »