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2008年3月 6日 (木)

伝えたいものはあるのか?

今日(6日)の日経朝刊の文化欄で、障害者の粘土作品についての話を読んだ。北岡賢剛さんの「創作の本能 国境越えて 障害者の芸術作品、世界の名品とともに展覧会」という文。知的障害者の人々の粘土作品の制作を指導するうちに、飽くことを知らぬ創作欲に感動し、世界の名品との共同展示にこぎ着けるまでの話。ものすごく納得した。なぜなら僕も同じ感動を得たことがあるから。

10年ほど前、府中市美術館で知的障害者ではないが、千葉の盲学校に生徒さんたちの粘土作品に感動したことがある。「障害者」ということで感動「してあげた」のではない。「目ではなく『手』で本気で真剣に見てる。心の底から造形している」っていうのが、作品からびりびり伝わってきて、とても揺さぶられたのだった。

すごくいい言葉があった。
「福祉や学校の現場では、障害は直すものだと教える。しかし創作という視点に立てば、障害とはガソリンタンクのようなものだ。創造する力に爆発的なエネルギーを供給する源なのだと思う」

伝えたい何か、それがすべて。
それがなければ、芸術発表なんぞやらないほうがいい、
いや、やってはいけない。

是非読んでみてください!

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コメント

以前、海外(どこの国かは失念しましたがたぶん北欧)
に取材に行った日本人ジャーナリストが、現地の美術
ジャーナリストに
「この国の障害者芸術家を紹介して下さい」と依頼した所
「この国には芸術家は大勢いますが、障害者芸術家はいません」
と言われたそうです。作者に障害があると作品に何か付加価値でも着くかのような考えは、作品にも作者にも失礼な話ですよね。
さかたさんも「作品からびりびり伝わってきて」感動したわけであって、作者の障害がどうとかは全く別な話なのですから。
それでもマスコミの取り上げ方って「障害を持ちながら」とか
「障害を乗り越えて」ってお涙頂戴、感動するよね?風からは、
なかなか脱けだせないんですよね…

投稿: 尻破れの妻 | 2008年3月 7日 (金) 16時00分

>尻破れの妻さん
僕自身も、「盲学校」という言葉で感覚がさらに強化された部分はゼロでないとは思います。どっちにしてもその「本気で掌で見ている」感覚はすごかったのですが。はっきりいってその時の常設展の印象が、全部吹っ飛びましたから。

>作品にも作者にも失礼な話ですよね。
芸術を見る視点はどうやったって自分にしかなく、普遍性・客観性はないけど、NOを言えるよう生きることの方が大切な気が、最近はしてます。NOを言うためには自分なりの確信や試行錯誤の日常がないとできない。それを言えないというのは、「あなたを真剣には見ていませんし、真剣にも生きていません」ということになる。それは大切な人に対して「傷付けたくない、自分も傷つきたくないからとにかく褒めちゃう」より、もっと失礼なことですよね。もっともそんなに僕も強くないし、そうやってたらつぶれるから、中途半端なんですけどね。

>「障害を乗り越えて」
確かにそれを乗り越えたもの、乗り越えてでも伝えたかった何かって、こちらを揺さぶるんですよ。高校時代の友人が先日脳梗塞で倒れて右半身が不自由になってしまいました。リハビリで回復し、それでも左手で描いた絵手紙に書かれた、渾身の「ありがとう」の文字、カミさんと二人で泣けました。乗り越えた人の佇まいは何かを伝えてくれるのも、また確かですね。

投稿: さかた(Ton) | 2008年3月 8日 (土) 12時53分

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