« 同居問題 | トップページ | ふろ自動 »

2010年1月11日 (月)

母一家を襲った空襲の記録

昨年の12月14日(月)、日大文理学部(世田谷区桜上水)に「江戸・東京発達史-その変遷と災害-」を見に行った(自転車で^_^;;;)。明治から現在にかけての地図や空中写真を、1万分の1くらいの縮尺で、体育館の床につなげて広げて展示してあった。壮観。これ眺めてるだけでもおもしろい。ここでは以前、伊能図も同じ手法で展示したことがある。

僕が見たかったのは、アメリカ軍が第二次大戦末期の昭和19年11月から、写真偵察機F-13(B-29を写真偵察用に改造したもの)で撮影した空中写真の展示。仕事で当時のアメリカ軍の作戦任務報告書(Tactical Mission Report)を読んでいるので、学ぶこともたくさんあったのだが、個人的に胸の詰まった写真があった。

それは昭和20年5月28日に撮影された、
東京南部の空中写真。

母は昭和20年当時小学6年生、だが学童集団疎開にはいかず、品川区大井の家に両親とともにいた。そこに昭和20年5月24日未明、東京南部空襲が襲う。母は家族で布団をかぶり、近くの立会川の橋(一本橋)の下に逃げた。母の家には焼夷弾が落ち、焼けてしまった。僕は今まで生きていて、「殺される」という経験はない。だが母は殺される、という経験を生でしているのだ。

この空襲は、アメリカ軍側の「第ⅩⅩⅠ爆撃機集団 作戦任務報告書 作戦No.181」(1945年7月12日付作成 アメリカ国立公文書館(NARA)所蔵)によると、サイパン島、グアム島、テニアン島に展開していた第ⅩⅩⅠ爆撃機集団の第58・73・313・314航空団の520機のB-29が、日本時間午前1時39分から2時38分までの間に、7800~15100フィートの高度から3645.7トンの焼夷弾を投下したもの。夜間空襲であることと煙で投下点が識別しにくかったため、大半はレーダーによりターゲットの地形を確認しての投下だったそうだ(その際のレーダー画面を撮影した写真が報告書内にある)。使われた焼夷弾は、投下目標を明確にさせる先導機がAN-M47A2。これは小型ナパーム焼夷弾でなかなか消せない火災を発生させるそう。大半のB-29は6ポンド油脂焼夷弾M69を集束して500ポンドにした焼夷弾を投下した。攻撃開始点(Initial Point)は現在の清川村宮が瀬湖の上空(10 miles south west from Hachioji)、そこから84度(真東から若干北)の攻撃軸(axis of attack)で襲いかかったものだった。現在のJR西大井駅すぐ東、マンションと広場になっているところには三菱航空機大井工場があり、そして照準機などの光学機器を作る日本光学(現存)もあった。それだけではないこの地域に密集した軍需工業を、短期間に2回の最大兵力による焼夷弾空襲を行うことで壊滅させるのが目的だった。
それに対する日本軍機の攻撃は、空襲情報の錯綜かで、爆撃開始点以前に攻撃してきたのは、B-29の98回受けた攻撃のうちたった1回だけ。日本軍機の全攻撃は機種不明機から90回、月光(Irving)から3回、百式司令部偵察機(Dinah)から1回、屠竜(Nick)から1回、隼(Oscar)から1回、鍾馗(Tojo)から1回、零戦(Zeke)から1回だそうだが、ただしその大半が離陸してきたのは、先導機が焼夷弾投下を終えた20-25分後。日本軍機の迎撃は手遅れだった、とこの史料にはある。

そんな空襲の後、さらに5月28日にF-13を飛ばして撮影されたこの空中写真は、この5月24日空襲の損害評価のためのもの。写真の前に座り込んで凝視すると、立会川沿いの民家は焼き払われている。それが手に取るようにわかる。その中に母の家もあったわけだ。不思議にも父の家(品川区二葉)はこの空襲にも焼けずに残る。昨年僕が売却した家の一階部分がそれ。この時、父の両親(僕の祖父母)は、ここにいたのだが、父は富山県の水橋に学童集団疎開にいっており、ここにはいなかった。この空襲で、母の一家は焼け出され、大森、荒川区町屋、足立区島根などを転々としながら、苦労の生活が始まった。その話も僕は子供の頃から聞かされている。母の一家はこの写真の空の下で必死に生きようとしていたのだ。戦争をしても苦しむのは、こうした一般人。国家の行う「戦争」という判断は、いったいなんなのだろう。

|

« 同居問題 | トップページ | ふろ自動 »

コメント

私の場合、母が経験した戦争というと空襲よりも満州でのソ連軍からの逃避行ですね。これはよ○ちゃんのお父さんも経験した逃避行だけど。これは物心ついたときから何度も何度も聞かされたのでものすごいリアリティで脳裏に刻まれてる。戦争で敵地に置き去りにされた民間人がどういう末路をたどるか、これは僕にとって絵空事ではないリアリズムの世界だ。

その後、成田空港のあの泥沼の抗争問題が満蒙開拓団の引揚者に与えられた開拓地がらみの問題だったと知って、自分自身のルーツの問題とあながち無関係ではないことに気がつき、愕然としたよ。

投稿: ウミユスリカ | 2010年1月11日 (月) 11時46分

そんな展示があったんですね。
すごい記録ですね
私が今生きてこうしているのも戦争をくぐりぬけてきた
祖父母や両親の歴史があってこそ・・・改めて思いました。
さかたさんのお母様の体験はそのままさかたさんの息子さんにも伝えてあげられますね。

私の両親はずっと埼玉でさかたさんのお母様のような空襲体験はなかったようですが父の兄は戦争体験もあり父が進学を断念して家族を支えた話しも聞きました

風化させてはいけないと改めて思いました
さかたさんの記事息子にも読ませますね
ありがとう。

投稿: ねも | 2010年1月11日 (月) 23時55分

>ウミユスリカさん
このコメント、当然よ○ちゃんにも見せたよ。よ○ちゃんの場合、ウミユスリカさんほど聞いてないって感じ。「大変だった」って言うのは聞いてるけど、そこから先は聞いてない。終戦時の歳の差もあるとは思うけどね。

>絵空事ではないリアリズムの世界だ。

うん。だからこそ、「聞けない」って気持ちも、、ある。オーラルヒストリーの場合、「語りたい」まで待つ必要、人間関係を作る大切さあると思う。そのまま棺桶に入られたらそりゃ悲しいけど、そこまで突っ込んで聞いていいのか(こちらは聞きたいが)、そのあたりの節度は一般人として持ち続けたいとは思ってる。

>満蒙開拓団の引揚者に与えられた開拓地がらみ

相模原にもね、そういうところがある。陸軍士官学校演習地だったところが戦後返還されて、引揚者への開拓地になった場所が。地図や地番からは消えたんだけど、バス停にそうした古い地名が残ってた。けど、この間、そのバス停名称が変わった。忘れていい歴史とは、僕には思えないんだけどね。
ウミユスリカさんのこのコメント読んで、昨日はそこへ行ってきたよ。

>ねもさん
>さかたさんのお母様の体験
>そのままさかたさんの息子さんにも

はい。ただしね。母に全て戦争が悪い、あなた達は幸せだと言われると、なにか解せない感じはあるんです。同じ苦労をしても、勉強してる人もいる(義父然り)。僕は父母の愛のおかげで恵まれてます。その部分では母に頭を垂れます。ただ勉強しなかった理由を全て戦争に転嫁されると、気持ちはわかるけどちょっと反抗したくなるんです。「それはあなたに何を犠牲にしても勉強したいだけの情熱(狂気と言ったほうがいい場合もある)がなかっただけだろう」、ってね。

>風化させてはいけないと改めて思いました

僕もそうは思うんですが、こんな仕事をしていても、記録をどこまで外に公開していいかは悩みます。

>さかたさんの記事息子にも読ませますね

僕のこの記事じゃ、本の読むのと同じです。それよりできたらおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いてあげてくださいまし。

投稿: さかた(Ton) | 2010年1月12日 (火) 23時38分

見に行きたかったなぁ、コレ。
一昨日、九段下の昭和館に行って「防空壕体験」をしてきたばかり。
当時の日本軍は本土決戦に備えて、迎撃を控える方針だったようだね。

戦争は外交の一手段に過ぎないから、国家全体としては利益に向かう判断であるはず。
何事にも犠牲はつきもの…とドライに思うけど、原爆を代表とする都市部への爆撃や満州ソ連軍の行動は、戦争ではなくただの殺戮・侵略・略奪だから憤りを禁じえない。
墓石に3月20日の命日で、三歳とか五歳とか並んで刻まれているのを見ると堪らんよ。

でも、その労苦の上に我々は生きているのだな。

投稿: JIRO@鬼畜米英 | 2010年1月13日 (水) 09時11分

>JIROさん
うん、東京大空襲は「東京大虐殺」(一字変えるとどっかで見た言葉)だわ。またこの記事の空襲は3/10空襲の倍以上の焼夷弾を投下してるんだよ。
国民に「死ね」「殺せ」を命令する権利まで、国家の最高責任者にはあるのかなぁ。僕ら小市民の立場からだと、戦争の国益って何、とは思ってしまう。
アメリカは国家になるとすごく横暴だよね。国益最優先で思い切り消費して、自分たちの倫理を絶対的正義として押し付ける。国家としてはキライ。でもこの国の資料保存に対する姿勢、そして北米大陸に住むフツーの人々はキライにはなれないんだわ。

お互いの国が干渉しあわず、その国の資源と倫理観のなかで生きてゆけるなら、いちばんいいとは思うけど、それにはもう経済規模も人口も大きくなりすぎてしまったのかもしれないなぁ。

投稿: さかた(Ton) | 2010年1月13日 (水) 17時12分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 母一家を襲った空襲の記録:

» 東京大空襲の空撮写真 [ちずらぼのちずらぶ]
1945年の東京大空襲から10日で丸65年となるのを前に、国土交通省所管の財団法人「日本地図センター」は5日、空襲前後に米軍が空撮した写真187枚の販売を始めた。米国立公文書館に残されていたネガフィルムを、日本地図センターが2006〜09年に掛けて発見...... [続きを読む]

受信: 2010年3月 8日 (月) 02時05分

« 同居問題 | トップページ | ふろ自動 »